初めてのイスラム圏で見て、感じる

今年の初め、トルコを訪れた。

私にとっては初めてのイスラム圏訪問である。

 

毎朝、町内会のスピーカーから流れる

目覚ましコーラン

イスタンブールの街を歩いているとそこ

かしこで耳にするアラブ風の音楽。

 

そして、外に出ると常に何かの匂いが、

香りが漂っている。

スパイス、体臭、香水、料理からと。

音や匂いで今、自分はトルコにいるんだ

と実感できる。

 

人口1500万人のイスタンブールは大都市

なので高層ビルも建っているし、人も多い。

東京や大阪とさほど見た目は異なっておらず、

カルチャーショックを受けるとまではいかな

い。

飲食店やブティック、文具店等が軒を連ねる

エリアは、一見して、イタリアの街のようだ。

 

ただし、それはざっと見ただけの話。

一番日本と違うと感じたのは、人々の親切さ。

トラムやバスの中で人が乗り込んでくる度に

常に他人に気を配っている。

お年寄りや体の不自由な人がいないか、目に

入ったら即座に席をゆずる。

お互いに助け合っている感がひしひしと

伝わってくる。

 

日本の電車内で、少なくとも東京や大阪で

この光景はみかけない。(息子は結構、席を

ゆずるところ見かけるよと反論するけれど)

入れ替わり立ち替わり、自分より年上だと

見ると、どうぞと立ち上がる。

 

イスラムと聞くと、過激派を思い浮かべる

人も多いだろうけれど、テレビの番組でも

その文化を知ることができる。

ラマダンの期間は日が暮れると、皆で卓を

囲んで食事をする。

レストランや、自分のアパートメントの庭

で、近所の人や店に居合わせた人達と楽しく

過ごす。

他人との距離の近さを感じる。それが自然に

生活の一部、生き方、習慣となっている。

 

イスタンブールでは常に現地の人と行動して

いたが、もし、私がひとりで困っていたら、

誰かが必ず声をかけてくれるだろうといった

安心感を感じていた。

そんなあたたかみを体感しに行ってほしい。

人を想い、思われるのに地球上の距離は関係ない

あの人どうしてるかな?

と、ふとしたきっかけで誰かを思い出す

ことは誰しもあるだろう。

 

では、思い出してもいなかった誰かを

夢の中で見ることはありますか?

 

昨夏の私のケース

日中、その人の事を考えていたわけでは

ないのに、夜ふとんに入ってから見た夢に

小学校時代の親友さっちゃんが出てきた。

 

「〇〇幸子さんですか?」と私が聞く。

「そうです。」と満面の笑みで答えてく

れたさっちゃん。

そこで夢は終わってしまう。

目が覚めてから、さっちゃんが私の事を

考えてくれたので夢で会えたんだ、と

自然に思えた。

平安時代の歌に自分が想った相手が夢に

出てくるのではなく、相手が自分を想い

夢に登場するという言葉があって、以来

その考え方に賛同している。

 

さっちゃんとは30年くらい会っていなく

すぐに連絡を取りたいと思ったけれど、

LINEもメールのアドレスも持っておらず

彼女の名前と教員という職業から検索。

 

少し変わった名前なので彼女がいるらしき

学校がヒット。でも数年前の情報でそこに

いるかは疑わしい。

まして突然電話しても怪しまれて取り次い

でもらえるかどうかわからない。

 

2、3日躊躇したけれど、彼女の住む東京

に来週行くこのタイミングで連絡してみ

なきゃ、と勇気を出した。

彼女の職場の学校に電話をしたところ、

こちらが拍子抜けするぐらい、あっさり

取り次いでもらえ、改めて夜話す事に…。

 

近況を伝えあってみると、その前の週に

さっちゃんは小学校時代の同級生3人と

先生と会食し、その際、私の事も話題に

のぼっていたとか。

夢に出てきてくれたのはやはり偶然では

なかった。

こうして、その次の週に、30年ぶりに

幼友達との再会を果たした。

交流は復活して、同窓会の仲間にも入れ

てもらい、今に至っている。

 

誰かが夢に出てきて会いたいと思ったら

迷わず連絡してみるといいと思う。

ポイントは、あなたが考えていなかった

のにもかかわらず現れた時だ。

グッドドクター おすすめ海外ドラマ

ネタばれになるので詳しくは書けませんが

想像するよりも様々な出来事が起きる。


人間ドラマに興味はない、と私の家族は

見向きもしませんが、、、

お涙頂戴モノではなく、辛気臭くもなく、

誰もの悩みがエピソードのどれかに

当てはまり、考えさせられる。


初めは自閉症の主人公ショーンの

成長を描く物語かと思ったけれど、

むしろ彼の周りの人間が変わって

いく。


人間はひとそれぞれ、嘘を何%つくか

独自のパーセンテージで生きていると

耳にしたことがある。


実際そうだと思う。

他人にこんなところでなんで嘘つくの?

なぜそんな本当の事、ストレートに

言っちゃうの?

この前言ってたことと矛盾するけど、

どっちがホントウなの?


と、疑問を持つことはある。

生きてきた環境で、経てきた体験で

この場でどういうべきかの判断は、

人によって異なる。


そして、ずっと自身にしみついた

やり方は、なかなか変えられないし、

変えようとも思わない。


そんな中、いわゆる普通とされる

大人の中に投じられたショーンは、

自分の生き方を考える試金石なの

かもしれない。

他人と比べない

自分と他人とを比べてはいけない、とは

よく耳にする言葉。


自分がめちゃくちゃ充実している時を

除き、比べて良い事はない。

わかっちゃいるけどやめられないのが

自分や家族の他人との比較。


人生がうまくいっていないと感じる時は、

とかく他人の芝生はよく見えるもの。

なんとなくよそ様がうまくいっている

よう、ではなく、ハッキリとした事実

をつきつけられる時もある。


落ち込む。ため息をつく。


そして、あの人の人生の今と、自分の

人生の今は、良い時、悪い時がずれて

いるであろうことに気づく。


気をとり直して淡々と自身の

人生を生きるしかない。


植物が春夏秋冬を経て、また再生する

ように、また花を咲かせられる時期が

自分にも来ると信じて。

お花によっても、咲く季節は違う。

他人の花と、自分のは咲くタイミング

が違うだけ。


太陽と水と栄養と風通しがあれば

健康を維持する環境と行動力があれば

いずれ咲くしかない。

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背骨で体が整うふしぎ

背骨を下から上まで手でなぞっていく。

自分のではなく、調子の悪い人の背骨。


丁寧にゆっくりと指をすべらせていくと、

ゴリゴリと詰まる、というか出っぱって

いるような箇所にあたる。


その体調悪しの人に尋ねると、たいていは

そこが痛い!

と言う。


手で当てられるのだ。

このやり方は整体の先生から習った。

先生曰く、身近な人同士で手当てができる

ように教えていると。


骨のでこぼこを見つけたら、指圧したり

せずに、ただポイントに手を置いておく。


その場合、肝心なのは、両者の呼吸を

合わせること。

手を置かれるだけでもその箇所の痛みは

軽減するのだが、呼吸に集中して深く息

を吐くと効果は上がる。


何十年も整体に通って、背骨の大切さを

知ったのは、ほんの数年前。

体のど真ん中を通っていて要じゃない

わけないよね。


腰痛や肩こりに気が取られるけれど、

背骨の中に調整できるポイントがある

ことに気づいてほしい。


現に朝からずっと続く偏頭痛と胸の

むかつきが背骨の手当てで解消された

経験がある。


人は人と協調して、いや共鳴して

生きるように創られていると感じる

事実のひとこまである。

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元気のもとが不機嫌のモトになる時

昔、職場の同僚の女の子が、自分の彼氏

を元気のもと、と呼んでいた。

それは楽しい時期で、プライベートが

充実していれば、仕事にも張り合いを

持てるというもの。

彼女はご機嫌だった。


それが、いつしか関係性が変わり、

同じ人物が悩みの種になり、

いつのまにか『不機嫌のモト』

なっている事もままある。


家族でも友人でも同じ現象が起きる。

相手が豹変したのかと言うと、そういう

ケースは少ないように思う。


人間は飽きる生き物。

相手と一緒に居られるのが当たり前に

なるとなおさら。

そばに居られる有り難みもなくなる。


バカの壁の養老先生も、恋なんて病気。

どうやったら治りますか、と相談を

受けるが、そんなもん一年も一緒に

居させれば治る、と仰る。

同感です。


そこを超えて、超越して達観して

愛することが、関係を持続すれば

成功なのか、正直わからない。


3ヶ月、半年、1年、3年と一緒に

過ごすうちに、相手の嫌な面と 

自分のボロも露呈する。 


友人や家族はともかく、両想いの

恋人だったら続けるかやめるか。

自分の素直な気持ちを尊重して

あげたなら、関係を断ったり、

相手とものすごく距離をとる

のも正解かもしれない。

継続が偉くて中断が失敗とは

簡単に言えない。


とにかく自分の中に湧き上がった

小さな疑念の泉を見逃さない事だ。


なにか変だと感じたら逃げよう。

その判断基準は、その人と一緒に

いる時の自分が好きかどうか。


人と関わる生活をしているかぎり

我々は出逢いと別れを繰り返す。

なんにせよ、誰かの不機嫌の元には

なりたくないものである。

知らないうちになっているかもしれ

ないけれどね。

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ほめられたい

初めて会った人から外見のイメージだけで

テキトーにほめられても、ほとんどの人は

嬉しいと感じるらしい。


たとえば研修で、たまたま隣になった人と

組んで、ほめあって下さい、と言われても

初対面でなんの情報もないという状況。


見た目だけで優しそう、料理が上手そう、

仕事ができそう、など良い印象を必死で

10コ言葉にすると、、、。


言葉を投げかけられた側の人は、何も

知らないくせに、などとは思わずに

これほど自分が理解されたことは今だ

かつてない、と思うそう。


ほんまかいな、とその実験を疑ってみる。

が、自分を振り返ってみても、持ち物を

ほめられただけでも嬉しかった事はある。


あぁ、そういえば先月会った初対面の

女性に、保健室の優しい先生みたいと

言われた。今ひとつどんなイメージか

ピンとこなかったけれど、多分ほめて

くれているのだろうと良く受け取った。


営業の実績とか、顧客の好評価を得た

という様な成果のわかる数字や言葉で

はない。

相手がその場だけでも自分に興味を

持って、気持ちを盛り上げるような

音声を発してくれる、その振動が

心地いいのだろうか。


なんにせよ、大人になるとほめられる

機会が少なくなる。

芸術系の仕事で成功している人が、

うらやましい。


多くの人が、ほめられる事が少ない日常

をおくっている。そんな中、ほめられると

理解してもらえたと思って嬉しくなって

しまうのも仕方ない。


いかに家族や職場の同僚、周りの人が

『ほめ惜しみ』をしていることか。

少しでもすごい、なかなかできないな

と相手を認める部分があったら、口に

出していこう。


照れたり、謙遜したりせずに、良い

振動を交わしていこ。

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