人の死を想う

先日、横浜の友人がうちに遊びに来た際、

晩酌のアテを私が作る間、時間つぶしに

眺めていてもらおうと、手に取った最初の

アルバムに、20年前のその友人とまだ1歳

にもならない私の息子が一緒に写っている

写真が偶然入っていた。

 

「見て見て、これ〜。」と言いながら、

写真を友にみせる。

「若いね〜。」と彼女も笑いながら写真

を眺める。


ふたりが写っている写真は1枚だけ。

自宅に遊びに来てくれた記念に撮った物

だった。


アルバムには友人とは無関係の写真が

見開きに数枚入っていた。

私の知人の結婚式の二次会で、少し大きく

なった多分4歳位の息子が、綺麗に着飾った

女性陣に混ざり、見守られている。


ドレスに身を包んだ女性のうちのひとり。

紛れもなく去年亡くなった後輩だった。

そこに写しだされた後輩に、死の影は

まったくなく、屈託なく微笑む20代の

女の子でしかなかった。


2018年の5月末に母を失った私は、帰阪

した6月の初めも自宅で呆然としていた。

その状態の中、届いた後輩の訃報。

以前ブログにその時の事は書いたが、

1年経ってこのタイミングで思い出すこ

ととなった。


今年、母の一周忌の法事を終え、後輩の

ことは勿論頭にはあったが、ご親族に

連絡をとるのは気が引けていた。

ご両親の悲しみが深すぎて、どんな言葉

も相応しくない。


そして実は、2018年の死はふたりでは

終わらなかった。

私が住む建物のお隣の独り暮らしの

女性が亡くなっていた。


ひとり、と言っても高齢者ではない。

30代か40代で、毎朝7時過ぎに出かける

気配がしていた。

夕方にはキッチンが明るくなっている

のが見えた。


私は気づかなかったのだが、息子が言う

には、時々男性が訪れていたらしい。

確かに普通の暮らしがそこにはあった。


2018年の12月、朝の8時にインターホンが

鳴り、お隣の女性の叔母様と名乗る女性

が、部屋を片付けるのでお騒がせします

と挨拶にみえた。


前月の11月のある日、出勤途中に倒れた

女性は救急車で病院へ運ばれ、そこで

亡くなったらしい。


否が応でも死について考えてしまう1年

だった。

生きていられる奇跡も感ぜずにはいら

れない。

生かされている、と言った方がいいか。


私の両親は最後に幸せだったと思えて

いけたんだろうかと考えてしまう。

どうも、そう思えなかったのではないか、

やり残した事が、行きたかった所があった

ように思う。


自分が1ヶ月後に死ぬとして、何をして

おきたいか。

そんな事があるのかどうか。

会っておきたい人がいるのか。そこまで

の人はいないのか。


人の死は、自分と向き合うきっかけを

与えてくれるし、最小限でもその時くらい

向き合いたい。

どこかに、ありがとうと言いたい気持ちが

ある。

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